信なくば立たず
                                                              平成29年7月25日
                                                                               
 得意先と取り引きをするには必ず「信用」が担保されていて、初めて成り立ちます。
 技術はある、資金繰りも良い、笑顔も良い、だけれどたまに嘘をつく。これでは、どんなに満足のいく仕事をしていても、たまの嘘が怖くて、まともに取り引きをしてくれる人はいないでしょう。

 信用の「信」と言う字はどのような成り立ちかと言いますと、人に言うで信になるわけですが、言うは「辛」と「口」から出来ています。そして「辛」は鋭利な刃の付いた道具を表し、人の口に刃物を突き立てている様子だと言われています。
 信じるとは、自らの事を信じて欲しい事はもちろんのこと、友人の言うことを信じ、もしそれが裏切られるのであれば、自らの命を投げ出すだけの覚悟をイメージして作られているのです。
 仕入れ先を信じて、物を仕入れたり、仕事を頼みます。
 職員を信じて、作業を進めます。
 お客様を信じて、物を売ります。
 これら全てが、自分ではない他人を信じる事で成り立つのです。

「子曰はく、人にして信無くば、その可なるを知らず。大車輗(げい)無く、小車軏  (げつ)無くば、それ何を以てこれを行(や)らんや」
 人に「信」がなければ、もはや生きていくことなどできない。それは牛車や馬車に牛や馬と車を繋ぎとめる轅(ながえ)の横木がないのと同じだと言っています。
 輗や軏は、車と牛馬を繋ぎとめるためにある物です。もしそれがなければ、車は動きませんから、何の役にも立ちません。孔子は、信をそれらと例えて人と人とを結びつけるものだと言っているのです。

 現代の生活環境の中では、インターネットを通じて、電子メール、SNSなど人と人とをつなぐための道具は、無数にあります。これらが多くの方に使われるのも、人の結びつきが大切である事を知っているからです。しかし、これらの道具によって大きなトラブルが起きていることも事実です。人と人とを結びつける事が出来るはずの道具が揃っていても、それを使う人間に「信」がなければ、逆に人との結びつきを壊す事となってしまうのです。

 私は武田鉄矢の代表曲である「贈る言葉」が大好きです。その歌詞の中に「信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい」とあります。こんな甘いことを言っていては商売は成り立たないかもしれませんが、縁だとか絆だと言って、沢山の名刺を配り沢山の知人を作るよりも、苦楽を共にして、心から信じられる友人が一人でも出来るのであれば、同じ時間を使っても何百倍もの幸せを得る事が出来るのではないでしょうか。